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大阪地方裁判所 昭和42年(ワ)6616号 判決

原告 脇田静子

〈ほか六名〉

右七名訴訟代理人弁護士 岡田義雄

同 井関和彦

同 中田明男

同 松井清志

同 亀田得治

同 小牧英夫

同 鏑木圭介

同 金谷康夫

被告 大阪府

右代表者知事 黒田了一

右訴訟代理人弁護士 道工隆三

同 加地和

同 山村恒年

同 赤坂久雄

同 井上隆晴

同 田原睦夫

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告脇田静子に対し金四五九万八九二二円、同脇田富代、同脇田初男、同脇田松子及び同脇田春子に対しそれぞれ金二二九万九四六一円ずつ、同全日本港湾労働組合関西地方本部に対し金三三〇万円、同全日本港湾労働組合関西地方本部東支部に対し金三〇万円、並びに、各原告に対しそれぞれ右各金員に対する昭和四二年九月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  (当事者の身分関係等)

亡脇田智男(以下単に「脇田」というときは同人を指す)は、昭和四二年当時、大阪市港区千代見町四丁目一二番地所在の関光汽船株式会社(以下「関光汽船」又は「会社」という)の従業員であり、関光汽船の従業員をもって組織された全日本港湾労働組合関西地方本部東支部関光分会(以下「関光分会」又は「分会」という)の分会長であった。原告脇田静子はその妻、同脇田富代、同脇田初男、同脇田松子及び同脇田春子はいずれもその子である。

原告全日本港湾労働組合関西地方本部(以下「原告地方本部」という)と原告全日本港湾労働組合関西地方本部東支部(以下「原告支部」という)はいずれも労働組合で関光分会の上部団体であり、原告地方本部は原告支部の上部団体である。なお、原告地方本部は法人であるが、原告支部、関光分会は法人格を有しない。

被告は、警察法に基づいて大阪府警察を設置する地方公共団体である。

2  (脇田の殺害とそれに至る経緯)

(一) 関光汽船は大阪港を中心とする海運荷役事業と陸上運送事業を行っており、その従業員は昭和三六年六月に労働組合として関光分会を結成したが、昭和三九年ころから原田勝明を組長とする原田組が陸上運送部門に進出して、次第に勢力を拡大し、昭和四二年(以下、年を略す)四月ころには右部門を独占的に支配(実質的には下請)するようになった。そのため、そのころには関光分会に所属するのは沿岸荷役部門の従業員二二名だけになったのであるが、原田組はさらに沿岸荷役部門をもその支配下に収めて関光汽船の事業全体を独占的に下請しようと企て、関光分会の分会長脇田らに両部門の合体を働きかけるようになり、七月二九日には原田勝明名義の申入れ趣意書によって右の趣旨を申入れて来た。そこで、関光分会はこれを拒否することとし、その旨を書面で回答したところ、八月一〇日、原田勝明は副分会長の有馬正安らに脅迫的な態度で再考を申入れて来たため、翌一一日、分会員全員が職場放棄をして集会を行い、原田組の暴力からの保護を会社に求めた。そして、同月一七日、会社の入谷豊洲会長は分会役員と原田組幹部とを同席させて、仲裁のためのいわゆる手打ち式のようなことを企てたが、その後も分会役員に対する原田組の働きかけは依然続いた。

(二) 右のような原田組の分会に対する脅迫行為にただならないものを感じた原告地方本部や原告支部は、同月二一日、関光汽船に対し分会員に一切危害が加えられないように会社において措置すること等、専ら原田組の暴力行為を予防することを内容とする協定の締結を申入れたが、会社からは何らの回答もなく、原田組による脅迫行為は止まなかった。

(三) 九月一一日、分会は原田組からの保護を求めて会社と団体交渉をしたが、会社から何らの確答もないため無期限職場放棄にはいった。同月一三日、関光汽船の作業現場にいた脇田に対し、原田勝明が「ちょっと来い」とすごんだが、脇田はこれを拒否した。そして、脇田ら分会役員は同日午後の会社事務所における分会と会社の団交に臨んだところ、原田勝明外二名がその席上に現われて、分会からの要求にもかかわらず立ち去ろうとしなかったため、団交は一旦中止され、以後組合事務所に場所を変えて行われた。翌一四日午後二時過ぎころ、脇田ら分会員及び支援の組合員が会社車庫内の沿岸荷役労務者寄場(労務者が更衣や休憩をする家屋。以下「寄場」という)とその周辺にいたところ、原田勝明その他の原田組員約一五名がピッケル、ハンマーなどを携えて三台の車に分乗して現われ、そのうち原田勝明外四、五名が寄場内にはいり、「脇やん(脇田のこと)、お前さえおらなんだらよいんや」「おぼえとけ、どうしてくれるんや」「覚悟しとけ、このままにしてはおかんぞ」「今日は帰るが明日は許さん」などと約一〇分間にわたって脅迫した。

(四) 同月一五日午前、脇田が組合員約三〇名と共に寄場にいたところ、午前一〇時五〇分ころ、原田勝明の命を受けた原田組組員原田進、赤木睦雄及び上田勝則が現われて所携の登山用ナイフでこもごも脇田の胸部、腹部、咽喉部等一一か所を刺し、間もなく右刺傷による出血によって失血死させた。

3  (警察当局の採った処置)

(一) 前述のような事態に際して、八月一〇日、原告支部の執行委員長大畑邦夫から所轄の港警察署(以下「港署」という)警備課主任本村義若に電話で事情を説明して警備方申入れたのを初めとして、同月二二日、原告地方本部の書記長亀崎俊雄や脇田その他の組合関係者が港署におもむき、港署長あての分会員全員の身辺警固を求める旨の警備要請書を提出し、九月一一、一三日には、職場放棄に際して原告支部組合員から港署に分会員の身辺警固方を要請し、また、同月一四日には寄場へ押しかけて来た原田組員らが去った後で現場へやって来たパトカーの乗務員の警察官に、分会員らが右の事情を話して身辺警固と原田組員らの逮捕を要請するなど、組合側から警察当局に繰り返し分会員、特にその中心人物である脇田について警備の要請をした。

(二) ところが、警察当局は、八月一〇日の申出に対しては、翌一一日本村主任が会社の福添徹常務取締役からひととおり事情を聴取し、また、原田組について大阪府警察本部に問合わせて原田組が暴力団としてリストアップされていないとの回答を得ただけで、それ以上紛争や原田組の実態について調査しようとしなかった。同月二二日の警備要請書受理後も、分会員ら、特にその中心人物として原田組から敵視されている脇田の身辺に十分な警固態勢を採ろうとしなかった。さらに、事態が一層緊迫の度を加えた九月一四日の原田組員らによる集団脅迫行為(これが犯罪であることは、後に原田勝明らが暴力行為等処罰に関する法律違反として有罪判決を受けていることからも明らかである)の後にも、迅速、的確な捜査を行ってこれに参加した原田組員らを逮捕するなどの処置を採らなかった。それどころか、報告を受けた港署長平松豊松は、同日夕方原田組事務所におもむいて原田勝明に面会しながら、専ら懐柔的な態度(いわゆる「御気嫌とり」)に終始した。

さらに、同日には原田勝明が入谷会長に脇田殺害の意図を暗にほのめかし、入谷会長はそれを港署警備課長寺島正夫に報告しているのに、警察当局はこれについても特段の対策をとらなかった。

(三) そして同月一五日午前には、寄場付近に私服の警察官数名と、制服の警察官二名乗車のパトカー一台が配置されていたにすぎず、原田組事務所付近には同組員の動向を警戒する要員は誰一人いなかった。そのうえ、犯行の少し前に殺害行為者三名が乗った原田組の乗用車が寄場付近を一旦偵察するために通りかかり、現場の警察官らは、それが原田組の乗用車であることに気づきながら、職務質問をしたり、あるいは警備を一層強化するなどの適切な処置を採ることなく、漫然と右乗用車を見送っただけであった。そして、犯行の時点には、寄場内及びその周囲には一人の警察官もおらず、わずかに、寄場から約二〇メートル南の道路わきの空地に一台のパトカーが駐車して二人の制服警察官が車内におり、寄場から道を隔てて約二五メートル北の会社事務所内に三人の私服警察官がいたものの、いずれも寄場で急事が生じた場合に到底間に合わないような距離であった。

(四) 原田進外二名が脇田に対し凶行に及ぶや、寄場付近にいた組合員は直ちに駐車中のパトカーにいる二人の警察官に通報した。そして、両警察官が現場に到着した時には脇田は未だ致命傷を負っていなかったにもかかわらず、両警察官は犯人らを近くに現認しながら拳銃をかまえて「やめろ、やめろ」と口走るだけで威嚇射撃すらせず、ついに脇田がのどに致命傷を受けることを防止する機会を失した。

4  (被告の責任)

(一) 大阪府警察は、警察法所定の職務(同法二条一項)を行うものとして、高度の注意義務を課されているのであるから、本件のように、暴力組織による労働組合に対する暴行、脅迫を伴う介入によって身辺の危険を感じた組合関係者が再三にわたって警備を要請している場合には、正確な情報の入手と適切な警備態勢を採ることにより、犯罪の発生を未然に防止すべき義務がある。

(二) ところが、本件においては、右3で述べたように、警察当局(大阪府警察本部長、港署長、同署警備担当者ら)は、組合からのたび重なる要請にもかかわらず、事態をあたかも会社内での第一組合と第二組合の間の紛争のように考えて軽視し、その結果、情報収集の怠慢、原田組に対する断固たる態度の欠如、そして犯行当日の不適切な警備態勢によって本件犯行を招来した。

また、パトカー乗務員の犯行制圧の不適切さ(前記3(四))によって、脇田死亡の結果を招来した。

(三) したがって、右の警察官らはその不作為について過失があるので、被告は、大阪府警察の設置者として国家賠償法一条一項の責任がある。

5  (損害)

大阪府警察の警察官らの前記不法行為によって、脇田及び原告らは次のとおり損害をこうむった。

(一) 脇田の損害 一三七九万六七六六円

(1) 逸失利益 八七九万六七六六円

計算の内訳は別表(一)記載のとおりであるが、本件では内金として右金額を請求する。

(2) 慰藉料 五〇〇万円

右(1)(2)について、法定相続分に従い、原告脇田静子は三分の一(四五九万八九二二円)を、同脇田富代、同脇田初男、同脇田松子及び同脇田春子は各六分の一(二二九万九四六一円)を、それぞれ相続した。

(二) 原告らの損害

(1) 原告脇田静子固有の慰藉料 二〇〇万円

(2) 原告脇田富代、同脇田初男、同脇田松子及び同脇田春子の固有の慰藉料 各一〇〇万円

右各原告は、殺害された脇田の妻又は子として、その精神的苦痛を慰藉するためには、それぞれ右の額が相当である。

(3) 原告地方本部、原告支部の慰藉料 各三〇万円

脇田の殺害により、関光分会員は原田組の凶暴さに恐怖感を抱き、自宅へ帰ることすらできないくらいであって、分会長に就任する者は全くなく、一一月下旬に至ってようやく後任者が決まったものの、実際の活動は行わない名目だけの存在であった。また、有馬副分会長外三名の分会員は、原田組を恐れる余り、相次いで退職してしまった。このようにして、関光分会は実際上ほとんど積極的な活動を停止してしまい、分会の上部団体である右原告両組合はその団結権に著しい打撃を受けるに至った。労働組合の団結権は、言うまでもなく憲法上保障された権利であり、これを侵害された場合には、組合自身が慰藉料を請求できることは当然であって、これは労働組合の法人格の有無によって何ら区別されるべきではない。そして、本件では前記額が相当である。

(4) 原告地方本部の受けた財産的損害 三〇〇万円

原告地方本部は、脇田殺害に抗議又は追悼するため各種集会を行い、参加した組合員に組合規程に基づく賃金保障及び動員費を支給する債務を負った。その内訳は別表(二)記載のとおりであるが、本件では内金として右金額を請求する。なお、これらは未支給であるが、それは組合財政上の理由によるものである。これらは、右(3)記載のとおり組合員の動揺、脱落を鎮静させ、団結権を回復する目的で行われたのであるから、被告はこれに対し損害賠償責任がある。

(三) 損害填補分

両組合を除く原告らは、関光汽船より見舞金の名目で六〇〇万円の交付を受けたので、内金三〇〇万円を脇田の、一〇〇万円を原告脇田静子の、五〇万円ずつを原告脇田富代、同脇田初男、同脇田松子及び同脇田春子の、それぞれ慰藉料に充当した。

6  (結論)

よって、原告らは被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、前記5(一)(二)から(三)を控除した金額(請求の趣旨記載のとおり)と、これに対する不法行為の日である昭和四二年九月一五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1の事実は認める。

2  同2(一)ないし(四)の事実は認める。

3  同3(一)のうち、八月一〇日、大畑邦夫から本村主任へ電話があったこと(内容は除く)、同月二二日、亀崎俊雄らから港署長あての警備要請書が提出されたことは認めるが、その余は争う。

同3(二)のうち、八月一一日、前日の電話を受けた本村主任が関光汽船の福添常務に会って事情を聴取したこと、府警本部が港署からの照会に対し原田組が暴力団としてリストアップされていないと回答したこと、九月一四日夕方平松署長が原田組事務所に行って原田勝明に面会したこと、同日の集団脅迫行為について被疑者らを直ちに逮捕してはいないこと、原田勝明らが右の行為につき後に有罪判決を受けたこと、は認めるが、その余は否認する。

同3(三)のうち、九月一五日、現場付近に私服警察官数名とパトカー一台(制服警察官二名乗車)が配置されていたこと、本件犯行の少し前、寄場付近に原田組の乗用車が通りかかり、警察官らがそれに気づいたが職務質問はしなかったこと、殺害行為の時点では、寄場から約二〇メートル南の道路わきの空地に一台のパトカーが駐車して二人の制服警察官がおり、会社事務所内には三人の私服警察官がいたことは認めるが、その余は否認する。

同3(四)のうち、凶行開始直後パトカー乗車の二人の制服警察官が通報を受け、現場に駆けつけ、拳銃はかまえたが射撃はしなかったこと、は認めるが、その余は否認する。

4  同4の主張は争う。

5  同5の主張は争う。

三  被告の主張及び抗弁

(主張)

1 不作為による不法行為責任が成立するためには、作為義務、それも単に一般的、抽象的なものではなく、具体的事情に応じた具体的な作為義務が存しなければならず、その具体的な事情としては、不作為の時点において危険な状態にあることを知り得たかどうか、そして、作為に出ることによって結果の発生を防止することができたかどうかが考慮されなければならない。

本件においては、右の意味で警察官には違法な不作為はなかったので、不法行為責任は存しない。

原告は、本件犯行当日に至るまでの警察の警備状況についてうんぬんするが、それは、本件犯行の時点における警察官の作為義務を判断するための事情に過ぎず、それ自体が直接問題となるものではない。また、犯行当日の警備態勢については、他の任務をもにらみ合わせて警察当局がその裁量で決めるものであり、直接警備を担当した警察官が具体的にどのような行動に出るかも、その警察官の裁量に任せられているのであって、これらの裁量行為については、違法性の問題は生じない。

2 本件においては、次のような事情を考慮すべきである。

(一) 大阪府警察本部長、港署長、その他の警備責任者について

(1) 当時、原田組には特段の犯罪歴がなかったため、警察当局は原田組を暴力団として把握してはいなかった。ちなみに、港湾関係の作業に従事する者の中には「……組」と称する団体は少なくなく、その名前だけからは暴力団と判定することはできない。

(2) 八月二二日の警備要請書提出の際、港署本村主任が被害を受けたという脇田ら分会員の供述調書を作成したいと申出たところ、脇田らはこれを拒絶した。その後も何度か同様な申入れをしたが、その都度これを断られている。

(3) そのような事情はあったものの、警察当局は右の警備要請により、警備計画を作成したうえ、これに基づいて分会員ら宅を重点警らし、関光汽船の作業現場付近に警察官を派遣するなどの処置を採ったが、特に異状はなかった。なお、組合側から脇田だけが特別に危険であるという話はなかった。

(4) 本件紛争を通じ、特に九月一一日からの無期限職場放棄突入後も、組合側は警察が紛争の内部に介入することを嫌って必ずしも事情の全貌を明らかにせず、警察当局も、労働争議への介入に対する非難を慮って、消極的な態度にならざるをえなかった。

(5) 九月一四日、平松港署長は原田組事務所に行き、原田勝明に暴力行為を行わないよう厳重警告したが、同人は十分承知したと返答し柔順な態度であった。

(6) 同日、組合関係者は警察官に対して、翌一五日の午前中には他の場所で組合大会があるので、寄場付近には分会員や支援の組合員はほとんどいないと語っており、したがって事件の発生もないであろうと判断された。

(7) 九月一五日は、近畿交通安全デーに当り、港署としても多数の警察官をそのためにさかなければならなかった。そして、右(6)の事情もあったが、前日のこともあり、組合員不在の寄場を荒されるようなことも考えられたので、パトカー一台(制服警察官二名乗車)、私服警察官三名を現場に配置したうえ、港区磯路一丁目七番一四号の港署弁天町派出所に警ら一個分隊(警察官六名)を配置した。

(二) 当日警備に当った警察官について

(1) 事件の直前、寄場付近は三〇人ほどの組合員がたむろして、脇田もむしろの上に寝ころぶなど、リラックスした状態であり、犯行を予測させるような兆候は何もなかった。

(2) 事件の起きる少し前ころ、原田組の乗用車が寄場付近を数回行きかったが、原田組自身関光汽船の下請をやっているのであるから、その車がその辺を通ることもこれまでしばしばあって、特に変わったことではなかった。

(3) 私服警察官三名は、同日朝原田組員が会社事務所に出入りしたことがあって、その間の事情を聴取するために会社事務所へはいったのである。

(4) 犯行直後、組合員から通報を受けたパトカー乗務員は直ちに駆けつけたが、もはや犯行は終了しており、何らなすすべはなかった。威嚇射撃もしなかったのは、犯人らが抵抗する様子もなく素直に逮捕に応じたからであり、また、犯人以外にも何人もの組合員らのいる場所では、むしろ射撃は危険ですらある。

(5) そもそも本件犯行は、犯行当日の朝、原田勝明が脇田の姿を見て激情にかられて殺害を決意し、犯行の直前に部下に命じて決行させたのであり、警察も組合も到底予測しえないものであった。

(6) 以上を要するに、本件犯行は全く予想し得ない状況の下に突発的に行われたもので、警察当局はその時点では客観的には十分適切な警備を行っていたが防止し得なかったのである。原告の立論は、すべて事後的な結果論に過ぎず、失当である。

3 原告地方本部の主張する各種集会に伴う財産的損害なるものは、脇田殺害の結果と必然的に結びつくものではないから、その間に因果関係はない。

原告地方本部、原告支部には精神的損害の発生を観念し得ないから、慰藉料を請求する余地はない。

(損害賠償債権消滅の抗弁)

1 関光汽船は脇田の遺族である各原告に対し、本件に関し、見舞金三〇万円、御供代三〇〇〇円、葬式関係諸費用八〇万九二六七円を支払った外、脇田の逸失利益及び同人の死亡に伴う慰藉料その他一切を含めて八〇〇万円を支払うことで示談し、既に右全額の支払を完了したので、右原告らの損害賠償請求権は消滅した。

原告らは、右の八〇〇万円のうち、二〇〇万円は原告地方本部が取得したというが、それは原告らの内部的な処置であるに過ぎない。

2 仮に損害額が1の金額を超えるとしても、関光汽船と脇田の遺族である各原告の間の示談の効力は被告にも及ぶから、被告の賠償責任はもはや存しない。仮に、示談の効力は一般に絶対的でないと解しても、関光汽船と被告の間では、その負担部分は全面的に前者にあること、あるいは、右原告らは関光汽船との示談によって本件の損害賠償に関する一切の問題の全面解決をはかったものであること、といった本件での具体的事情の下では、右の示談の効力は被告にも及ぶものと解すべきである。

3 仮に、示談の効力が被告に及ばないとしても、脇田には被告に対する関係で過失があるので、その過失相殺をすれば被告にはもはや賠償責任はない。すなわち、前述したように、脇田には、警備要請をしながら供述調書の作成に応じなかったこと、原田組との関係に関する情報を警察に知らせなかったこと、事件の前日には翌日(すなわち事件当日)の午前中には原告地方本部で定期大会を行うといっておきながら、実際には脇田自身を含む多数の者が寄場に集まるなど、適切な警備を行うことを妨げていること、といった事情があり、右は過失相殺の事由に該当する。

四  抗弁に対する原告らの認否及び主張

1  抗弁1のうち、関光汽船が脇田の遺族である各原告に対し、本件に関し、見舞金三〇万円、御供代三〇〇〇円、葬式関係諸費用八〇万九二六七円を支払ったことは認める。また、脇田の逸失利益及び同人の死亡に伴う慰藉料その他一切を含めて六〇〇万円の支払いを受けたことは認めるが、それを超える金額の支払及び示談が成立したとの点は否認する。右は、関光汽船による道義的責任に基づく補償ともいうべきもので、損害賠償債務の履行ではなく、したがって示談の成立ではない。

なお、原告地方本部は関光汽船から二〇〇万円の支払を受けているが、これは争議解決金である。

2  同2の主張は争う。仮に前項の関光汽船との解決が示談に当るとしても、共同不法行為者の一人との示談の効力は他に及ばないから、被告の右主張は失当である。

3  同3の主張は争う。脇田には何らの過失も存しない。

第三証拠《省略》

理由

一  請求の原因1、同2(一)ないし(四)、同3(一)のうち、八月一〇日、大畑邦夫から本村主任へ電話があったこと(内容は除く)、同月二二日、亀崎俊雄から港署長あての警備要請書が提出されたこと、同3(二)のうち、同月一一日、前日の電話を受けた本村主任が関光汽船の福添常務に会って事情を聴取したこと、府警本部が港署からの照会に対し原田組が暴力団としてリストアップされていないと回答したこと、九月一四日夕方平松署長が原田組事務所へ行って原田勝明に面会したこと、同日の集団脅迫行為について被疑者らを直ちに逮捕してはいないこと、原田勝明らが右の行為につき後に有罪判決を受けたこと、同3(三)のうち、同月一五日、現場付近には私服警察官数名とパトカー一台(制服警察官二名乗車)が配置されていたこと、本件犯行の少し前、寄場付近に原田組の乗用車が通りかかり、警察官らがそれに気づいたが職務質問はしなかったこと、殺害行為の時点では、寄場から約二〇メートル南の道路わきの空地に一台のパトカーが駐車して二人の制服警察官がおり、会社事務所内に三人の私服警察官がいたこと、同3(四)のうち、凶行開始直後パトカーの二人の制服警察官が通報を受け現場に駆けつけ、拳銃をかまえたが射撃はしなかったこと、以上の各事実は当事者間に争いがない。

二  《証拠省略》並びに、一の当事者間に争いのない事実を総合すると次の各事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

1  関光汽船は、昭和二二年に設立され、昭和四二年当時大阪市港区千代見町四丁目一二番地に本社事務所、同区磯路町二丁目無番地市設七号上屋内に安治川内港営業所(両者は約四〇〇メートルくらいの距離にある)を設けていたほか、全国の八か所に営業所を置き、沿岸荷役業、貨物自動車運送業その他の免許を受けて営業を行っていた。

昭和三九年ころ、関光汽船はその事業のうち、港と荷主の間の貨物自動車輸送の一部を原田勝明に依頼するようになった。原田勝明は、当初白ナンバーのトラック一台を用いてその仕事をしていたが、同年六月関光汽船は会社名義の大型トラック一台を購入して同人に使用させることとし、両者の間で、運賃は二割を会社が諸経費として差引きその余は原田勝明が取り、また、その使用するトラックの償却費は同人が負担する旨の契約書が交わされた。そして会社が原田勝明に使用させるトラックの台数は次第に増加し、それに伴って原田勝明の使用する作業員も増えて行き、同年八月これらの者が中心となって原田組が結成された。

ところが、昭和四〇年五月ころから、原田組は収支計算の赤字が続いたため、昭和四一年四月ごろから会社は原田組の組員にも会社の従業員として給料を払い、トラックの償却費も会社が負担することとした。関光汽船の陸上運送部門は、従業員二〇名、トラック一〇台くらいであったのが、原田勝明らが仕事をやるようになると他の部門に配置換えされるなどして段々減って行った。そして昭和四二年九月ころには、原田組所属の従業員は一七名くらいでその使用するトラックは八台あり、そのほかに、それ以外の会社従業員がトラック三台を使い、陸上運送業務に従事していた。

2  原田組は、前述のような経過で組織されたのであるが、結成当時は両襟にいわゆる「代紋」と「若頭」などの名称や原田組の名前を染めぬいたはっぴを作り、組員に仕事中着用させたことがあり、また、組長(原田勝明)、世話人、若頭、小頭、若中、従業員の区別を設けるなど、いわゆるやくざの色彩が強い団体であった。しかしながら、特に表だった暴力事犯の前歴もなかったので、大阪府警察の暴力団のリストには登載されていなかった。

また、原田勝明ないし原田組は道路運送事業の免許を受けていなかった。

3  原田勝明は、昭和四二年(以下、年は略す)六月ころ、関光汽船の沿岸荷役部門にも進出しようと考え、関光分会の脇田分会長、鼻力雄書記長に、分会と原田組が共同して作業に当ることを数回にわたって申入れ、脇田らから文書によって申入れるよう求められると、七月二九日、原田組と分会が共同して新会社を設立し、関光汽船の沿岸荷役及び陸上運送作業全般の下請を行い、会社に対し有利な報酬を求めようという趣旨の申入れ趣意書を提出した。これに対し、脇田ら分会役員は、下請制では収入の不安定が見込まれるし、名目はともあれ実質上下請制の原田組と、常雇制の組合とでは到底統一ができないと考え、八月一〇日、申入れを拒絶する旨の回答文書を原田組に渡したが、原田勝明が激怒して再検討を求め、これを突き返してきたので、原告支部及び原告地方本部の役員らと協議したうえ、分会員がこの合体問題で暴力的体質をもつ原田組の態度に恐怖心を抱いていることから、翌一一日分会が会社に原田組の暴力からの保護を求めて職場放棄をすることとし、同月一〇日、会社にその旨通告した。それとともに、原告支部の大畑邦夫執行委員長がかねてから知っている港署警備課本村義若主任に電話で関光汽船における紛争の概要を告げ、翌日から職場放棄をするからよろしく頼む旨伝えた。本村主任は、それまで関光汽船におけるそのような事態についても、原田組自体についても、全く知らなかったので、詳しくは翌日直接会って聞く旨答えたうえ、大畑委員長からの電話のことを寺島警備課長に伝え、同課長からの連絡で、脇田と原告支部の植元章副委員長が港署に来て、紛争の概要を説明した。

4  八月一一日、分会は職場放棄を実施し、会社に対し、今後原田組の分会に対する交渉は会社を通じてさせること、会社は原田組が分会員に対して暴力を加えないという一札を原田組に書かせること、原田組が分会員に暴力を加えたときは会社はその事業から原田組を排除すること等を要求して交渉した。本村主任は、関光汽船本社事務所で福添常務取締役と川端菊次郎労務部長に紛争の事情を尋ねたところ、福添常務らは組合が警察に連絡したことを意外とし、紛争の概要を告げたものの、詳しくは説明しないで、警察に迷惑をかけるようなことは絶対にさせない旨言い、その際、本村主任から、原田組は暴力団かと問われたのに対してはそれを否定した。そのあとで、本村主任は港署、府警本部、西淀川署(その管轄区域内に原田勝明の住所がある)の各担当官に問い合わせたが、いずれも原田組を暴力団として把握している事実はなかった。

5  関光汽船の入谷会長は、分会と原田組を和解させようと考え、八月一七日夕方、脇田、鼻、有馬の分会三役と原田勝明・久雄兄弟を同席させたうえ、会社としては両者の合体は考えていないので今後とも従来どおりの関係でやってほしい旨を告げ、分会役員は応諾し、原田兄弟も一応これを了承する態度を示した。ところが、会合が解散して後、原田勝明は他の原田組員とともにまたも合体の申入れを蒸し返してその応諾を執拗に迫ったりして夜遅くまで脇田らにつきまとった。

6  その後も原田組員の分会員に対する脅迫的な言動はやまなかったので、分会は会社に対し団交を申入れ、八月二二日に開かれた団交の席上、重ねて、原田組の暴力からの保護と原田組の関光汽船の作業からの排除を骨子とする申入れをしたが、会社側は即答を避けた。

そこで、原告地方本部の亀崎書記長らは、今後脇田ら分会役員を中心に分会員に対する原田組の脅迫やいやがらせが強くなる恐れがあると考え、警備の要請をすることにして、同日夕方、港署の本村主任に電話でその旨申入れたが、来署するよう求められて港署におもむき、寺島警備課長や本村主任に対し脅迫を受けている事情を説明して口頭で分会員の身辺警備方を要請したうえ、同夜分会三役ら二一人の連署による港署長あて組合員及び家族の身辺の警固方を求める要請書を提出した。

それを受理した本村主任は、脇田に対し脅迫を受けた事実につき供述調書の作成に協力するよう求めたが、同人はこれを断り、亀崎原告地方本部書記長もその必要はないではないかと言い、結局供述調書は作成されなかった。

7  本村主任は、即日次のような内容の警備計画を起案し、港署長らの決裁を受け、以後この計画に基づいて警備が行われることになった。

(一)  期間 争議解決のころまで当分の間

(二)  警備対象 分会員二二名

(三)  警備担当 警備課員、警ら課員

(四)  実施要領

(1) 作業現場(寄場のある会社車庫の敷地)付近は主として警備課員により直接警備にあたる。特に、原田組の動向については、会社側とも連絡を密にして動静を十分把握し、積極的に職務質問を行う。

(2) 組合員の私宅に対しては主として警ら課員による重点警らにより、私宅周辺も合わせて警備する。なお、組合員の私宅を訪問する場合は、訪問したためにかえって家族が不安を感じることのないように言動に注意する。

(3) 警備実施結果については書面又は電話報告とするが、電話報告の場合は警備課又は警ら課幹部に異状の有無を報告する。

(4) 港区以外に居住している組合員私宅は受持警察署警備課を通じて依頼する。

8  翌二三日、再び団交が行われ、二四、二五日は職場放棄が実施されたが、二六日からは分会も就労した。そして、事態は従前と格別変化もなく、原田組の脅迫的言動も時おりあり、会社も何ら抜本的な対策を講じようとしなかった。組合側は支援の組合員を作業現場付近に動員して、分会員の警備に当らせたこともあった。

一方、警察は、警備計画に基づいて作業現場や分会員の私宅に警備・警らを行ったが、特段の異状を認めなかった。その間、本村主任らは数回組合側に供述調書の作成に協力するよう申入れたが、拒絶された。

9  このように事態が一向に進展しないので、分会は会社が原田組に対して断固とした処置に出ないときは無期限の職場放棄を行うことに決して、九月一一日午前中に団交を行ったが、その席上福添常務ら会社側が具体的処置について明確に述べなかったため、午後四時からは無期限の職場放棄にはいった。そして、脇田らからこの旨を港署に通知した。

一二日、一三日と続いて団交が行われたが、一三日の団交の席上には原田勝明が現われて、組合側の退去要求にもかかわらずいすわり、そのために団交が一旦中断するようなこともあり、また、分会員らに対する原田組員によるいやがらせや示威的行動もあった。この間、警察官は本村主任をはじめ数名が警備のため会社事務所や作業現場付近に来ており、組合員らはこれらの警察官に原田組員の行動について話したこともあった。

10  翌一四日、関光汽船の入谷会長は午前一〇時半ころ原告地方本部の吉井副委員長に職場放棄を中止するよう要請したところ、吉井副委員長から会社が即刻原田組の下請をやめさせない限り応じられないと言われ、これを容れるしか事態打開の途はないと判断し、正午すぎ、原田勝明・共和兄弟を料亭に招き、組合側との交渉の概要を説明したうえ、原田組が会社の事業の下請をやめないことには紛争が解決しないのでやめてほしい旨話した。すると、原田勝明は意外にあっさりとそれを承知する旨答えたものの、ふてくされた態度で、やめた後は会社とは関係がないのだから、どんなことをしても良いのかと、組合員に暴力をふるうことを暗示するような言辞を弄したので、入谷会長は暴力をふるったりしては会社に迷惑がかかるからと、これをたしなめた。そのあとで、入谷会長は、港署に寺島警備課長を訪ね、原田勝明との話合いの状況を告げた。

11  一方、入谷会長と別れた原田勝明は、一旦安治川内港営業所の二階(原田組員のたまり場になっており、事実上原田組の事務所のようになっていた。以下「原田組事務所」という)に帰り、組員ら約一五名をひき連れて会社事務所から道路をはさんですぐ南側にある寄場へ押しかけて、居合わせた脇田、亀崎原告地方本部書記長らを脅迫した(請求の原因2(三)参照)。組合員からの電話連絡によりパトカーが駆けつけ、次いで本村主任も別のパトカーで急行したが、現場への到着はいずれも原田組のひきあげたあとであった。組合員らは、その場でパトカーの乗務員や本村主任に口々に原田組の脅迫行為について訴えたが、多数の者が統制もなく話をするため必ずしも要領を得なかったし、さらに本村主任が会社事務所に行って福添常務に尋ねると同人はこれを全く知らないような応答をした。そのため本村主任は犯行の詳細を確知しえないでいるうち、組合の集会が始まったので、後刻本格的に捜査することとし、その集会の終わるのを待って、亀崎原告地方本部書記長に翌一五日の組合の行動予定を問うと、当日の午前中は原告地方本部傘下の大阪港分会の定期大会があるので、組合員は関光汽船分会員も含めて原告地方本部の事務所に集まり、午後から支援の組合員も合わせて関光汽船作業現場へ来て二〇〇〇名くらいで決起集会をする、ただし、連絡の不備で当初から作業現場へ来る組合員もあるかもしれないので、幹部数人は午前中もその連絡のため寄場へ来ている旨答えた。

12  本村主任は一旦港署に帰ったが、港署長平松豊松らが原田組による集団脅迫行為について現場視察に出かけようとしていたので、同署長らを案内して引き返し、寄場、原田組事務所を回り、原田組事務所では、平松署長が昼間組合に何をしに行ったのかと問うと、原田勝明が話し合いに行った旨答え、平松署長が暴力を振ったら検挙する旨警告すると、原田がそれは分っていると答えるなどの問答があった。

午後六時ころ帰署した平松署長らは、翌日の警備態勢について検討した。翌一五日は、近畿交通安全デーで外勤の警察官のほとんどが街頭での交通取締に当り、また、府警本部機動隊は岸和田市で行われるだんじり祭のため警備に出動することになっていた。そして、平松署長らは、本村主任らが聞いて来た翌日の組合の行動予定から、作業現場付近には午前中少数の者が集まるだけで大きなもめごとも起らないだろうと判断し、それでも原田組員が留守中の寄場を荒らしたりする恐れもあるので、午前中はパトカー一台(制服警察官二名乗車)と私服警察官を作業現場付近に配置し、寄場近辺を重点的に警戒するとともに、約九〇〇メートル離れた弁天町派出所に制服警察官一個分隊(六名)を待機させる、午後からは作業現場で大規模な決起集会が予定されているので、機動隊員の一部を割いてそれに隣接署からの応援警察官も加え、警備に当るとの計画をたてた。

13  九月一五日、前日の計画にのっとり、午前八時一五分ころ港署の警備係長細川常弘、本村主任、宮崎、篠原両巡査の四名(私服)が、パトカーで原田組事務所の前を通って様子を見たうえ、寄場付近に到着した。その近辺には組合員は見当らず、本村主任が寄場へはいって行くと、亀崎、大畑その他の組合幹部数人が集まっていたので、本村主任は同人らから前日(一四日)の原田組が押しかけて来たときの様子を聞いたが、さらに詳しく聴取したうえで供述調書を作成しようと考え、その日(一五日)は組合の各種の集会も予定されていることから、明日から詳しく事情を聞く旨告げた。細川係長は、現場到着後間もなく、宮崎巡査に周辺の写真撮影を命じ、その終了後宮崎、篠原両巡査に原田事務所の方へ警戒に行くよう指示したうえ、寄場へはいって、その日の組合の予定が前日の聞き込みのとおりであることを確かめ、再び外へ出た。本村主任は、午前八時五〇分ころ港署との連絡のためパトカーで帰署した。そのころ、宮崎、篠原両巡査が原田組事務所付近での警戒から帰り、特に異状はない旨細川係長に報告した。そして、細川係長ら三名が寄場の前で警戒に当っていると、午前九時五分ころ、原田組の乗用車一台が目の前を通過して関光汽船の事務所の前に停まり、原田組員三名が一旦降りてから、すぐまた乗り込んで往路を引き返して行った。それからしばらくして細川係長に府警本部から電話で現場の状況と隣接署からの応援部隊派遣の必要の有無を問合わせて来たので、細川係長は格別の異状もなく午前中は応援の必要がない旨答え、さらに港署に帰った本村主任にも電話で右問答を連絡した。そのころパトカー一三七号(元重、難波両制服巡査乗務)が寄場のすぐ北側に駐車したが、細川係長は、その場所の通行量が相当あることと、前日パトカーが寄場のすぐ近くに駐車していたのを組合員から目障りだからもっと離しておくようとがめられたと聞いていたことから、寄場の南数十メートル離れた地点へ右パトカーを移動させるよう指示した。そのとき、宮崎巡査から会社事務所に原田勝明が来ているという連絡を受け、細川係長が会社事務所へ駆けつけると、寺島警備課長(本村主任を送り返したパトカーが、再び現場へ来たとき、同乗して来た)と篠原巡査が中の様子を伺っており、事務所内では、原田勝明が会社関係者と何か話合っていた。話合いが続いているので、寺島課長、細川係長らは寄場の前にもどり警戒していると、一〇時一〇分ころ原田組の乗用車が南から来て寄場の前を通り、会社の事務所の前に停まって原田勝明を乗せ、再び引返して行った。一〇時一五分ころ、寺島課長(交通課長も兼ねていた)は交通安全デーの仕事もあるためにパトカー一三七号で港署に引返した。間もなく、会社事務所から入谷会長が現われ、細川係長が様子を聞くと、これから知人に紛争の仲裁をしてくれるよう頼みに行くと話して去った。一〇時二五分ころ、右パトカーが帰り、先に細川係長が指示した場所に元どおり停車したが、細川係長は、会社事務所へはいって様子を聞くつもりだったので、その間寄場付近の警戒が手薄になるのを避けるため、パトカーを寄場の南二〇メートルくらいの道路の東側にある空地にまで近づけ、車を西向きにして見通しが効くように前部を道にはみ出した形で駐車させた。一〇時三〇分ころ、弁天町派出所に待機していた警察官三名が警らのため現われたので、細川係長は状況を説明したうえ引続き重点警らを行うよう指示して帰らせた。そして、パトカーの無線で細川係長らが原田組の乗用車のナンバーによる所有者の照会をしていると、一〇時四〇分ころ、その乗用車が南から現われパトカーの前を通過して寄場の所を右折して東に向かい、それに気づいた細川係長らはすぐに車が右折した地点まで追って行ったが、もはや乗用車の姿は見えなかった。細川係長ら私服警察官三名はそのまま右地点で警戒していたが、異状も認められなかったので、事情聴取のため会社事務所へはいり、川端労務部長と一言、二言話し始めた直後、凶行の発生を告げる声を聞いた。

14  同日午前八時ころ、亀崎、大畑ら組合幹部は一旦寄場に集まったところ、支援の組合員も集まって来た。午前九時ころ、鼻分会書記長もやって来たが、鼻分会書記長は、大畑原告支部委員長に、支援の組合員らが来ているのに直接の当事者である分会員がいない(分会員は当日朝予定どおり原告地方本部の事務所に集合していた)のでは申し訳ないのではないかと相談をもちかけ、結局分会員らを寄場に呼び寄せることになり、午前一〇時ころ脇田を始め分会員らが寄場に到着した。脇田は、寄場内にござをしいてその上に横になったが、組合員のための炊き出しの煙がじゃまになって寝ていられないといって、外(北側)へ出、そこにある鉄板の上のベニヤ板に横になった。その他の組合員ら約三〇名は、寄場の中や外に集まって腰を下ろして談笑したり、炊き出しを手伝ったりしていたが、その時点ではまだ特に緊迫したという状態ではなかった。

15  同日、原田勝明は午前一〇時ころ原田組事務所から会社事務所へ行って入谷会長、福添常務らと会ったが、事態は依然変わっていないということだったので、いらだちを押えつつ車で原田組事務所へ帰りかけ、その途中で寄場の前にいる脇田の姿を見かけ、原田組が会社の仕事をやめなければならないような羽目に追込まれたのも組合側の中心人物である脇田の所為によるものと強い憎しみを感じ、脇田の殺害を決意した。そこで、組事務所の西側岩壁に原田組員でいずれも小頭である実弟原田進、赤木睦雄、上田勝則の三人を呼び寄せて脇田の襲撃を命じ、登山用ナイフが組事務所内に置いてある旨教示した。それを受けた原田進ら三名は組事務所内から登山用ナイフ二本を持出して、原田組の乗用車に乗り、原田進が運転して寄場へ向かったが、南から北に向かって寄場へ行く途中、パトカーが駐車して警察官がいることに気づいたので、再度原田勝明の指示を受けることとし、寄場の所で右折して東へ進み、次の交差点をさらに右折してから原田勝明のいる喫茶店まで行き、同人に指示を求めたところ、決行するよう命令されたので、再び寄場へ引き返した。そして、パトカーの前を通ることを避け、先のコースを逆にたどって寄場の東側の交差点に出、そこから西へ向かって寄場の北側へ車を停めた。

16  午前一〇時五〇分ころ、原田進と赤木はそれぞれ登山用ナイフを隠し持ち、上田は素手で寄場内にはいって、顔見知りの鼻分会書記長に脇田はいるかと尋ね、鼻分会書記長がいないと答えたのに、なお寄場内を捜したが、脇田の姿が見当らないので西側出口から外へ出、寄場の外周を北側の方へ回って行くとそこにある鉄板の上に脇田が横になっているのを発見した。そして原田進が「脇起きい」と叫び、首の辺を蹴上げると脇田が立ち上がったので、原田進は登山用ナイフを抜き脇田の右脇腹を続けざま二回突き刺した。脇田は叫び声をあげて逃げ出し、それとともに、その周囲にいた組合員らが一せいに原田進の背後から飛びついて後へ引きもどした。赤木は、原田進が脇田を突き刺すのを見るや、登山用ナイフを取り出して脇田の尻や太もも等を数回突刺し、さらに寄場の西側の方へ逃がれようとした脇田に追いすがってその胸部、腹部等を数回突刺し、上田も脇田の頭部を数回手拳で殴打した。

17  パトカー乗務の元重、難波両巡査は、車の中から周囲を警戒していたところ、午前一〇時五〇分ころ、寄場の方から二、三人の男が「パトカー早く来い」などと叫びながら駆けて来たので、直ちに車から飛び出して走って行った。難波巡査は、寄場の西側でナイフを手にした原田進を発見し、走りながら拳銃をかまえ制止し、抵抗するようすもない同人からナイフを取り上げて両手錠をかけ、元重巡査は、同様にナイフを手に立っている赤木と上田を発見して、拳銃をかまえて制止したうえ、抵抗を受けることのないまま両名を逮捕した。関光汽船事務所にいた細川係長らが現場へ駆けつけたときには、既に犯人三名は逮捕された後であった。脇田はすぐにパトカーで病院へ運ばれたが、出血がはなはだしく死亡した。

三  被告の責任について判断する。

1  警備要請を受けた警察が警備に当る場合、法令の許す範囲内で、いかなる警備の態勢、方法をとるかは、警察当局ないし個々の警察官の判断ないし裁量にゆだねられるべきである。けだし、具体的な警備の態勢や方法は、個々の局面で刻々と変化する流動的な情勢に応じて選択されるべきであるし、また、警察の負う他の任務や職責の執行も閑却されてはならないのであって、これらの事がらを最も良く知ることのできる立場にあるのは警察当局ないし警察官にほかならないからである。したがって、右のような意味での裁量内において具体的にとられた警備の態勢、方法は、たとえ当、不当の問題は生ずるにしても、違法な行為とされることはない。しかしながら、個々の局面において許される裁量の範囲にはおのずから限界があるのであって、その処置が著しく合理性を欠き裁量の範囲を逸脱しているときは、単に不当というだけではなく、違法の問題を生ずることになる。

2  そこで、前記一、二の事実に基づいて警察当局ないし警察官のとった処置について検討する。

(一)  九月一四日の集団脅迫行為より前の処置について

組合側から警察に紛争の事情説明や警備の要請をしたのは八月一〇日を初めとして、同月二二日の警備要請書の提出、その他数回にわたるが、これに対して警察当局は、当初本村主任が中心となって紛争の実情の把握に努め、警備要請書を受けとってからは本村主任が起案した警備計画に基づいて警備活動に当ったのであり、その処置について著しく不合理な点があったとは認められない。

原告らは、警察当局が情報収集を十分に行わず、原田組に対して断固とした処置に出なかったと主張する。原告らの指摘するように、警察当局が紛争を当初会社内の二つの労働者組織の対立(いわゆる第一組合と第二組合の確執)と同じようにみていた一面があったとしても、原田組が、道路運送法違反のいわゆるもぐりの下請業者であるにせよ、関光汽船の仕事の一部を継続して行っている者の集まりであることは事実であるから、そのような見方も全くできないわけではない。もっとも、分会が常雇いの従業員で構成され、港湾労働者の全国的組織の傘下にある労働組合であるのに対し、原田組は少なくとも世にいう暴力団に極めて類似した機構と体質を備えた(名目はともかく実質上は)下請業者であって、この紛争は暴力的団体による労働者の職域の侵奪とこれに対する労働組合の抵抗という性格が強いことは否定できない。しかしながら、警察当局もこの面を看過していたわけではなく、警備計画に基づいて分会員の就労する作業現場に警察官を配置したり、分会員の私宅を警らしたり、会社幹部に事情を聴取したりしているのであるし、この段階では組合員らから、原田組による個々の犯罪行為について告訴又は告発が行われたのでもないから、強制捜査などの強力な処置が原田組に対してとられなかったのも、非とするに足りない。これに加えて、会社や組合が必ずしも警察当局の活動に協力的でなかった事情も指摘される。すなわち、会社幹部は当初から警察が紛争に関与することに好意的でなく、事態の解決は会社、組合、原田組の三者だけで行うという態度であったし、組合側は、警備要請書提出の際もその後も脇田らが供述調書の作成を断っており、警備を口実に警察当局が組合内部の情報収集や労使関係に介入することを警戒する意思が強かったことが窺われる。もっとも、警備のためにその要請者又は警備の対象者の供述調書が必須というわけではなく、また、供述調書がないからといって警備の必要性が当然に減ずるわけでもないし、警察当局の過剰な介入を組合側が警戒することも労働組合組織の一般的な性質から理由がないではないが、より強力な警備態勢をとり、必要があれば強制捜査にも移行することを組合側が期待するというのであれば、供述調書の作成についてその協力方を警察当局が要請したのに、これに応じないのはいささか理解に苦しむところであって、これを断るのは危険の切迫、したがって警備の必要性がまだそれほどでないと警察当局が判断してもあながち不合理とはいえない。なお、脇田が断ったのは、供述調書の作成に協力することによって原田組の反感を一層買うことを恐れたということもあったと考えられないではないが、身辺の危険が切迫していたのなら、そのようなことを言ってはいられないはずであるし、また、警察当局に厳重な秘密の維持を依頼すれば足りるのである。したがって、このような会社と組合側の態度も考慮すれば、警察当局がこの段階でとった処置を特に不合理であったということはできない。

(二)  九月一四日の集団脅迫行為以後の処置について

九月一四日の原田組による組合関係者に対する集団脅迫行為は、従前と異なって、白昼公然と行われた犯罪であり、この犯行以後は客観的には警備の必要性は一層強まったといい得る。そこでこの段階からの警察当局の処置について検討する。

まず、原告らは、警察当局が速やかに原田組員らの逮捕などの処置に出なかったことを非難するが、警察官らが犯行現場に駆けつけたのは既に原田組員らが立ち去ったあとであったから、警察官による現行犯逮捕又は準現行犯逮捕の要件が具わっていなかったことは明らかである。もっとも、原田組員らの行為は暴力行為等処罰に関する法律一条に該当するから、通常逮捕はもとより、緊急逮捕も客観的には可能であった。しかしながら、通常逮捕には被害者の供述調書等の疎明資料を備えたうえ裁判官に逮捕状の発付を請求することが必要であるし、また、緊急逮捕には厳重な法定の要件が課せられていて、仮にも軽々に行うことが許されないことは当然であるし、さらに、逮捕をどの段階で行うかは(現行犯逮捕は別として)警察官の裁量にゆだねられていると解されるのであって、特に、本件の場合、本村主任は現場の組合員らが口々に訴えるために詳細な犯行内容を把握できなかったことなどから、後刻本格的な捜査に当ろうと判断したのであり、これらの事情も考慮すると、警察官が脇田殺害事件の発生した翌一五日より前に逮捕などの強制捜査に出なかったとしても、警察官としての職務を怠ったものとはいえない。

次に、夕刻原田組事務所におもむいた平松署長の態度について、原告らは、原田組に対し適切な処置をとらないばかりか、もっぱら懐柔的な御気嫌とりの態度に終始したと責めるが、それが当らないことは前記認定の事実により明らかである。たとえ、同署長に多少説得的な言辞があったとしても、原田組の違法行為の続発を制止するという見地からすれば、あえて異としないのであって、それを「御気嫌とり」と難ずべきではない。

(三)  九月一五日の警備一般について

犯行当日午前中の警備態勢は、基本的には作業現場付近に私服警察官三ないし四名、パトカー一台と乗務員の制服警察官二名、他に、九〇〇メートルくらい離れた派出所に制服警察官六名を配置するというものであるが、その配置が場所的、人数的に不合理、不十分であったとは解されない。もっとも、警備という点からすれば配置の地点も人員も多いほど良いであろうが、具体的な警備態勢は、先に述べたように、警備の必要性の程度、その他諸般の事情を勘案して、警備担当の責任者がその裁量で決すべき事柄であり、本件における右の警備態勢は、警察当局が前日の組合幹部からの聞き込みによって当日(九月一五日)の午前中には分会員は原告地方本部の事務所に集合し、組合員のごく少数しか寄場には集まらないと判断してとられたものであって、紛争の経緯等からみて、その措置は不合理なものではない。実際には当日の午前中寄場の周辺には脇田を始め三〇名以上の組合員が集まったのであるが、その集合のいきさつから考えて、警備担当者がこれを予測しなかったのは、やむをえなかったといえる。

(四)  九月一五日の現場の警察官の行為について

まず、一般的に、当時の寄場とその周辺には、もちろん争議行為の最中であることや、紛争の経緯、ことに前日の集団脅迫行為の発生からいって、それなりの緊張感が組合員ら、ことに分会員らの間にあったことは容易に推認できるものの、特別に緊迫した事態や変事を予測させる兆候はなく、表面的には一応穏やかであり、組合員らもむしろ午後から行われる決起集会に対する原田組の出方に大きな関心と不安を抱いていたとみられるのである。

また、本件犯行を犯人側からみても、原田勝明が犯行を少なくとも最終的に決意したのは当日の朝であり(これは、本件犯行が原田組にとって関光汽船の下請の仕事を完全に失ってしまういわば自殺行為であって、仕事の分野を拡大しようとしたことが契機で始まった紛争の当初はもとより、犯行の前日に入谷会長から下請をやめてくれと言われるまでは予定になかったと推察されることからも裏づけられる)、原田進らに直接実行を指示したのは犯行の少し前に過ぎないのである。それ故白昼衆人環視のもとで本件のような重大な犯行が実行されるとは、組合員らにとっても警察官らにとってもはなはだ予想外であったことが容易に推認できる。したがって、本件犯行は直前まで予測が困難であって、その意味で突発的な犯行であったといえよう。なお、原告らは、前日の寄場での原田組員による脅迫行為の際のことばや、原田勝明が入谷会長に言ったことばから、本件犯行の予測は可能であったというが、これらのことばは、いわゆる脅し文句や捨てぜりふの類であって、直ちに特定の犯行を具体的に予測させるまでのものとは認められず、まして衆人環視のもとでの凶器による殺害行為と結びつくと警察当局が判断しなかったとしても不合理ではない。

次に、個々の警察官の行為について、原告らが問題にする点を順次検討する。まず犯行の少し前に原田進らの乗った原田組の乗用車が寄場に向ってパトカーの前を通過した事実である。警察官らはそれが原田組の車であることに気づいて、すぐに二〇メートルくらい追いかけたのであるが、その際に停止させて職務質問をしていれば、あるいは原田進らの行動の牽制となって犯行を断念させることができたかもしれないし、携帯していた凶器を発見できなかったとも限らない。しかしながら、原田組は関光汽船の事業の下請をしているものであって争議に重大な利害関係を有しているのであり、したがって寄場付近に原田組の車が現われたとしてもそれほど奇異ではなく、現にその日は朝から既に数回会社事務所へ行ったりしてその付近に現われているのであるから、右自動車出現の事実から直ちにこれに乗っている原田進らに何らかの犯罪を犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由があるとして警察官職務執行法一条に基づく停止、質問をすることは困難であるし、また任意の停止、質問、所持品検査をしないことが警察官としての職務を怠ったものともいえない。

また、私服警察官三名がそのあと会社事務所へ行き、現場にはパトカーの乗務員二名だけが警備に当っていた事実であるが、まず、私服警察官らはその前に原田勝明が来て会社関係者と話していたのでその会話の内容等について聞くために会社事務所へ行ったのであり、それ自体は情報収集活動として十分意味のある行動である。ただ、その際必ずしも三名が全員行く必要はなかったのではないかとも考えられないではないが、先に判示したように、当時の状況が特段緊迫してはいなかったことからみて、三名が行ったことを著しく不合理であったとはいい得ない。そして、パトカーの配置されていた位置であるが、それは寄場の南二〇メートルくらいの道路東側の空地で、パトカーは前部を道路にはみ出して車内から周囲、特に寄場の付近を見ることができるように駐車されていた。そして二人の警察官は犯行時には車内にいたのであるから、寄場のある作業現場の一部(西側)は見ることができたものの、北側や寄場内が全く見ることのできない位置であったのは確かである。そして、犯人たちはその見えない北側に駐車してから寄場にはいったのであり、もしパトカーあるいは警察官が寄場の西北の交差点の付近に位置していたならば、本件犯行を防止できたかもしれない。しかしながらそれもやはり結果から回顧的に考えたものに過ぎず、前述の当時の寄場付近の状況からいって、右警察官らの行為を不合理と認めることはできない。

犯行の通告を受けてその現場に駆けつけた二名の警察官の行動については、先に判示したように、その時実行行為は既に終了していたのであるから、もはや制止行為の当否を問題にする余地はないことが明らかである。

3  以上を要約するに、港署長その他の警備責任者及び当日現場にいた警察官らのいずれにも、違法な行為は存しないというべきである。

四  以上の次第で、その余の点について判断するまでもなく、原告らの請求はいずれも理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石川恭 裁判官 井関正裕 西尾進)

〈以下省略〉

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